丹野正先生最終講義
平成24年2月11日(土)丹野 正先生の最終講義
丹野先生に、最終講義の内容を掲載したいとお願いしたところ、快く発表原稿をご提供下さいました。当日時間の関係でカットした部分も含まれているそうですので、参加された方も是非お読みください。
また、当日参加できなかった方は、学生時代の丹野先生の講義を思い出しながら読むと懐かしさが倍増しますよ。
◆プリントしてゆっくりと読みたいという方は、丹野先生最終講義原稿PDF版(←クリックして下さい)をダウンロードしてご覧ください。
◆丹野正著 『資本論』「第一章 商品」の解読 −マルクス独特の文体による経済学者との“対話篇”−は弘大出版会へ
最終講義 狩猟採集民アカ・ピグミーとマルクスの「商品」論
はじめに
私もとうとう、最終講義という大学での最後の通過儀礼を受けることになりました。年度末が近づいてお忙しい時期にもかかわらず、また、遠方からもおいでくださって、感謝しますと同時に、恐縮しております。
私が1981年に弘前大学人文学部に来てから31年が過ぎました。10年ひと昔というから、自分でも長々とお世話になったものだと思います。その間にいろんなことがあり、先輩の先生方や同僚の先生たち、その時どきの学生たちと一緒にいろんなことをやってきました。そして10年前からは大学院地域社会研究科に住民票を移して現在に至りました。でも、今日はそういうことはすべて省略して、この間に私自身がやったことについて話します。
私は京大理学部の人類学研究室で、亡くなりましたけど伊谷さんという良き師に出会いました。学部の4年生の時に「伊谷先生」と呼びかけたら、「先生なんて言うな、気持ち悪い、さんと言え、さんと」、と言われまして、それ以来「伊谷さん」と呼んできましたし、先輩も後輩もみんなそう呼んできました。また、よき先輩にも恵まれました。今日おいでくださった田中二郎さん、掛谷誠さん、それに亡き原子令三さんなどなどです。そして、去年亡くなられた西田利貞さんも伊谷研究室の先輩で、アフリカでのチンパンジー研究の第一人者でした。私は、こちらに来る前は東大の人類学教室で助手をしていたのですが、西田さんは当時この教室の講師でおられて、いろいろ面倒を見てもらった心強い先輩でした。
私が弘大に来た翌年の1982年に、その西田さんから電話があって、「ザイールの西端のウバンギ川の東岸地域にも、バンベンガというピグミーがいるらしいよ。 彼らを調査するつもりがあるなら、来年の調査隊に加えようと思うけど、どうする? やるか?」ということでした。ザイールというのは現在のコンゴ民主共和国ですが、ウバンギ川の西の方にもコンゴ共和国というのがあって、話がややこしくなるので、今日は、東側の大きい国をザイール、西側の国をコンゴと呼ぶことにします。このザイールの東部からずーっと西ヘコンゴとカメルーンに至るまで、赤道直下に広大な熱帯森林地帯が広がっています。
ウバンギ川の東と西での調査
70年代前半に私は、原子さんの次にその大森林地帯の東北の端に住んでいるムブティ・ピグミーを調査しましたが、その後は市川さんや伊谷研究室の多くの同僚が行って調査を続けていました。そこへ、西田さんが西の方のバンベンガ、つまりアカ・ピグミーの調査に誘ってくれたわけです。そしてその時、西田さんから一つの頼みがありました。西田さんたちはタンザニアのタンガニーカ湖畔にすでにチンパンジーの調査基地を構えていて、長年調査をしていましたが、そこでのチンパンジー研究と比較可能になるような新しい調査地を、ずっと西の方で、アカ・ピグミーの調査の一方で、見つけて来てくれというミッションでした。このこともあって、83年にはウバンギ川の東岸一帯を歩き回りましたが、その地域にはアカ・ピグミーのグループは少数しかいなかったし、チンパンジーはどこで訊いても「いるいる、たくさんいる」と言うけど、「獲っているか?」つまり「狩猟してそれを食っているか」と訊くと、「食う」とのこと、これではチンパンジーを観察しようと近づいても逃げてしまうので、調査はできません。
ウバンギ川の対岸の方、つまり「コンゴの方はどうか」と尋ねると、「あっちにはバンベンガ(アカ・ピグミー)はもうたくさんいる、チンパンジーもたくさんいる、おまけにゴリラもたくさんいる」とのことでした。でも、ウバンギ川は国境になっているので、すぐに渡ることはできない。大森林地帯のど真ん中にはトゥワというピグミーの大きな集団もいるので、83年には彼らのところにも行ってみたのですが、雨季の最中で、森のなかは一面がスワンプのように水浸しになっていて、とても調査できる環境ではなかったのであきらめて、またウバンギ川東岸のアカのところに戻りました。そして83年度の最後に1ヵ月ほど西岸のコンゴに入ったところ、アカ・ピグミーは本当にたくさんいたので、アカの調査はいくらでもできることがわかりました。しかし、チンパンジーもゴリラも確かにたくさんいるようなのですが、どこで訊いてもやはり、「うん、獲る。食う、うまい」とのこと。それではやはり、この一帯でもかれらの調査は不可能です。
85年にも、アカの調査のかたわら、ウバンギ川の西側の支流をさかのぼった奥の方で調査をしました。もちろんアカは多数いました。チンパンジーやゴリラの調査地は支流の最上流あたりは望みがあるけど、そのあたりもアカの居住集団が動きまわっているので、見つければ狩猟の対象にしているようでした。次の87年の調査でようやく、農耕民の村もなくアカの居住集団(バンド)もそこまでは足を延ばさないという無人地帯――途中が湿地帯で遮られている――を探し当てました。しかも、「そこまで人が行くと、チンパンジーやゴリラの方から、物珍しげに近づいてくる」とのことでした。これでようやく、西田さんから託されたミッションに応えることができたし、翌年からは仲間によるチンパンジー・ゴリラの調査が始まりました。ただし残念なことに、数年後、日本人研究者が行くことができなかった年に、WWF(世界野生動物保護基金)のアメリカ人研究者たちが入り込み、その後は彼らの調査基地になってしまいました。
ここまでは序論で、これからは、東の方のイトゥリ地方に住むムブティ・ピグミーと、西の方のウバンギ川地域のアカ・ピグミーを比較してみると、とても面白いことがわかったというお話です。
ムブティとアカに共通する事柄
その、ムブティとアカの比較の話をする前に、どの地域のピグミーにも共通している事柄について、まず話します。
ピグミーは熱帯森林地帯の先住民で、もともとは彼らだけだったはずです。そこへ2000年前か1000年前かに、焼畑農耕を営むバントゥ系などのいわゆる黒入たちが北西部のサバンナ地帯から入り込んで来て、彼らも森林地帯に広がって行き、今ではどこに行っても農耕民とピグミーの双方がいる。もっとも、農耕民はいるけど、どういうわけかピグミーはいないという地域もかなり広がっています。こういう地域の村人に聞いても、このあたりにもピグミーはいるというので、話はややこしい。というのは、森林地帯の住民つまり農耕民とピグミーの双方にとっては、世界中のどこにも村の人間(村人に言わせれば文化的な人間)とピグミー(遊動生活で定住しない)という2種類の人間がいるものだ、というのが彼らの世界観だからです。だから、行く先々で「どこから来たの?」と尋ねられるので、 「私は日本から来た」と言うと、私が日本のピグミーだとは思わないらしく、「日本のピグミーはどんな動物を狩猟しているのか?」、「日本のピグミーはどんな暮らしをしているか?」と質問された。「日本にはピグミーはいない。日本にピグミーがいたら、わざわざここまで来ない」と言うと、「では、ヨーロッパのピグミーはどうしている?」とさらに質問される。
歴史の途中はわかりませんが、今では、ピグミーはどの居住集団・バンドも、自分たちの地域に住んでいる農耕民のそれぞれの村とパートナー関係を結んでいる。バンドとは、狩猟採集民のキャンプと生活を共にしている集団のことで、10家族前後、50人くらいで構成されています。他方、農耕民の村は小さな村から大きな村まで規模はさまざまで、大きな村には「俺たちの村のピグミー」というバンドが二つ三つ存在する。
それぞれのバンドは、パートナーの村の近くに「村のキャンプ」をつくっていて、森のなかにいくつかの「森のキャンプ」がある。ピグミーが村のキャンプに滞在するときは、毎日のように村に出かけて行っては村人と会話し、村人の畑づくりやいろんな仕事を手伝ってあげて、畑の食べ物を、そしてときには古着や古鍋やナイフや鉈や槍といった鉄製品をもらっている。昔は彼らもピグミー本来の言語を話していたはずですが、何百年もこんなふうな付き合いをしてきた結果、いまではどこの地域のピグミーも自分たちの言葉を失ってしまっていて、自分たちが住んでいるその地域の農耕民の言葉を話している。
農耕民は、自分たちの方が上で、ピグミーが下の存在だと見なしている。バントゥ系の言葉でムトゥ(複数形はワトゥ)またはムントゥ(複数形はバントゥ)は、日本語では人、人間と訳すことになるけど、ピグミーがいる地域では、そう簡単ではありません。農耕民に言わせると、ピグミーはムトゥ・ワトゥではない。「ムトゥ・ワトゥはわれわれのこと(つまり農耕民、いわば文化をもった、まともな人間)なのであって、彼らはムトゥ・ワトゥではないのだ! 彼らはバンブティ、あるいはバンベンガなのだ!」とのこと(そして、こういうときには、タンノは日本のムトゥだとみなされる)。だけど、その一方では、親と子の関係だというふうにも表現します。「俺たちは彼らの父親や母親のようなもので、彼らは俺たちの子供のようなものだ。親は子供の面倒をみるし、子供は親を手伝う。日本でもそうだろ?」
他方、ピグミーはどこでもそこの農耕民と同じ言葉を話しているのだから、彼らは自分たちのこともムトゥ・ワトゥに含めます。だけど彼らも、自分だちと農耕民の村人とは違う、と考えています。だから彼らは、自分たちのことを「森の人」、農耕民を「村の人」と呼んで、両者の違いを強調します。ピグミーは村の人から見下されているし、ずっと見下されてきたことを昔から知っている。でも、「森の人」という言葉には自己卑下的な感覚はありません。むしろ誇りが込められている。「俺たちは、木を全部切り払ったカンカン照りのところに家と村をつくって、畑を作って、1年中じっと定住している、なんてことはしない。俺たちは「森の人」だ。村の人はお前たちも村をつくって、自分たちの畑をつくれと言うけど、森にはいくらでも食べ物があるのだから、そんなもの必要ない」と言います。
以上がムブティとアカに共通の事情でして、これからは、両者の違いについてです。
ムブティとアカの比較
最初に、ムブティが住んでいるイトゥリ地方は、ザイールが1960年にベルギーの植民地から独立した直後に起こった内乱・コンゴ動乱のときに、反政府軍が最後に立てこもった地域で、その後は、この地域の住民つまり農耕民には銃・鉄砲の所持は禁止されていました。彼らも肉を食いたいから、弓矢や槍、網、はね罠などで狩猟する。だけど狩猟はムブティの方が上手で、彼らから肉をもらう方が簡単です。だから、彼らには畑の作物つまりバナナやトウモロコシ、キャッサバのイモやカボチャその他をあげて、肉やキノコや蜂蜜その他の森の産物をムブティからもらっている。パートナー関係にある村の人とその村のピグミーとの間では、これらのやりとりは物々交換ではなく、まさに「あげたり貰ったり」です。互いにこれらをお金で売買することもない。村人はお金を使っているが、ピグミーの畑づくりなどの手伝いにお金で返礼することもない。やはり「手伝ってもらう」「手伝ってあげる」「畑の食べ物をあげる」「それらをもらう」です。
しかし、町場の人はそうはいかない。そこで、イトゥリには、村の人(ただし別の村からやって来る商売気のある人)のなかには、ムブティの森のキャンプまでやって来て物々交換でムブティの肉を入手して、それを町まで担いで行って売る人がいて、森のなかのキャンプに畑の作物をたくさん背負って来て、肉と交換する。そしてそれを火であぶって燻製肉にする。交換割合の相場もある程度決まっている。中には古着をどっさり背負って来る者もいます。軽いお金・紙幣をもって来て、お金で肉を買うという横着な人もいます。そして燻製肉を町まで担いで行って、より高い値段で売る。一方、お金を得たムブティは村である曜日ごとに開かれる青空市場で物を買うし、酒を買って飲む。こういう事情で、ムブティは、お互いどうしは分け合い、パートナーの村の人とは「あげる・もらう」の一方で、それ以外の村人とは物々交換をするし、お金での売買も知っている。交換割合を数えるし、お金を数える、つまり数詞でものを数えることも知っています。私は森のキャンプには村の若者を1人2人雇って助手として連れて行っていたので、私も肉を買っていました。
ムブティの森のキャンプで、村のある男が米と肉とを物々交換したとき、その交換割合についてあるムブティが私に「あの男は俺たちをだましているのではなかろうか」と耳打ちした。以前に村で交換したときには、同じ大きさの肉に対して米はコップに12杯だったのに、あの男はいまコップ10杯の米で肉と交換している、おかしい、ということだったのです。それで私がその村人に問いただしたら、彼はキャンプのみんなに聞こえるように大きな声で次のように説明したのです。お前たちが村で交換したときには、村人の畑と畑の作物は村のすぐ近くにあった。それに対してお前たちは、森で獲得した肉を遠くの村まで運んで行って交換した。汗を流したのは村の人ではなくお前たちの方だ。だからお前たちは10杯より多い12杯の米を得ることができたのだ。一方、いまこの森のキャンプでは、お前たちは獲物をすぐ近くで獲ることができるから、汗は流さない。それに対して俺たちは遠くの村からここまで重い米やバナナを担いでやって来たのだから、多くの汗を流したのは俺たちの方だ。だから、ここでは12杯より少ない10杯の米という交換割合で当然なのだ。だましているのでは決してない。経済学者も顔負けのこの説明を聞いたムブティたちは、なんとなく納得したようでした。
次にアカですが、ウバンギ川の地域でも農耕民の村とアカのそれぞれのバンドはパートナー関係を結んでいます。彼らどうしでの物のやりとりはイトゥリ地方でと同様にやはり「あげたり貰ったり」で行なっています。でも、この地域では銃は禁止されていないので、それぞれの村に散弾銃を持っている人が何人かはいます。銃を持つ村人は自分でも銃猟をするが、これもアカの方が上手です。といっても銃を持っているアカはいない。村の人はパートナーのアカの男に自分の銃と散弾を2・3発持たせて、銃猟をさせます。それで、アカの男は銃の扱い方を熟知しているのです。
だからこの地域では、アカの森のキャンプには、イトゥリでのように肉を交換で手に入れるとか、お金で買うという肉買い商人は来なかった。ただし、彼らが森のなかのキャンプにいるときにも、銃と自分の食糧を担いだ村人(ただしパートナー関係にはない商売気のある村人)がやって来て滞在することがあります。そして同様にしてアカの男に銃猟をさせる。彼が獲物を獲ってきたら、半分とか4分の1とかはアカに渡すのかと思って見ていたら、銃の持ち主がほぼ全部を自分のものにしてしまいます。アカには獲物の頭部と内臓の一部くらいしか与えない。そんなことなら頼まれても断ればいいのにと私は思うのだが、彼らはなんとも人がいいのか、断ることはないし、分け前をくれとか、もっとたくさんくれと言うこともないのです。ただ、こんなこともありました。
銃の持ち主は、翌日には村に帰るというその日にもアカに銃猟をさせて、獲物をもう一頭手に入れました。そして翌朝、彼が燻製肉で満杯の籠を背負ってキャンプを去るとすぐに、アカの男はキャンプの裏手の藪に消え、獲物を担いで戻って来た。わけを訊くと、じつは前日に獲物を二頭獲ったのだが、一頭しか獲れずにもう一発の弾は撃ちもらしたと言って、一頭だけ村人に渡したのでした。みんなで大笑いしながら、キャンプの全家族でその肉を分け、料理していました。
アカのところでは、私はテントも寝袋も持たず、村人を助手に雇って一緒に行くと食料も持って行かなければならないし、それを担いで行く人をさらに雇わなければならないので、食料を持たずに私1人で彼らのキャンプに行きました(ただし鍋とバケツは持って)。そして、「ここでしばらく一緒にすごしたいから、私の小屋を作ってくれない?」と言って小屋を作ってもらい、夕方暗くなっても料理をせずに男だちと話していました。女たちは自分の小屋の前の焚火で料理を始める。妻の料理が出来上がると男たちも妻のところに行ってしまう。暗がりのなかで様子を見ていると、女は料理ができあがったら、その一部を大きな葉っぱに盛って、子供に持たせて隣の小屋や向かいの小屋やあっちこっちのおばちゃんたちに届けさせる。それから家族で食べ始める。その時には鍋に少ししか残っていないので、すぐに食べ終わってしまいます。でも、どのおばちゃんも自分の料理ができると同じようにするので、結局出ていった分は戻って来るようなもので、みんなたっぷり食べています。
私はじっと我慢して知らぬふりをしている。そしたらそのうちに、おばちゃんの一人が葉っぱによそった食べ物を私のところに持って来て、黙って差し出した(というより、突き出した)。私はメルシー(ありがとう)と言って受け取り、食べながらビエン(うまい)と言う。それを見ると、女性たちが次々に料理の一部を持って来たので、私もメルシーを連発する。というわけで、彼らと一緒にいる分には、私は食料の心配をしないで済むことになったのでした。
彼女たちが私に食べ物をくれるのを、初めに少しためらったのは、村の人たちはアカが料理したものは食べないからで、彼らは、アカは料理を知らない、だから食えたものではない、と言っているからです。だからこのタンノというひょっこりやって来た妙な人も、自分たちの料理は食べないのではないかと思ったからです。ところが、うまいと言って食っているではないか、じゃー、あげよう、というわけです。
村人は、アカが生の肉や生のキノコなどをくれるときには喜んでもらう。でも、アカが料理したものは受け取らない。アカもそれを知っているから、料理したものを村人にあげることはない。だから、私がときどき村に行くと、村人は私に、「タンノはアカのキャンプに住んでいるんだよな、おまえは何を食べているんだ?」と訊きます。私が「彼らに食べ物を分けてもらって食べているよ」と言うと、「え! そんな物を食っているのか。食えたものじゃないだろう」。私は「いやいや、そんなことないよ、おいしいよ」、といったことになります。
私はムブティのところでもやっていたように、アカのキャンプでも毎日男たちに辛い煙草を1本ずつ、ときには2本あげ、女性たちには一握りずつの塩を週に1回くらいあげる。彼らは上述のように食べ物をくれるし、水を汲みに行くときに私のバケツにも汲んで来てくれるし、薪をとりに行ったら、私の小屋の前の焚火の横に2・3本ぽいと落っことして行ってくれる。私はそのたびにメルシーを繰り返します。数日後、キャンプの一番年長の男が私のところに来て、煙草をくれと言うのであげると、「俺はいまメルシーと言ったか?」と訊くので、「言わなかった」と答える。彼「ほかの男たちは言ったか?」 私「いや、言わないね」 彼「おまえが女たちに塩をあげたとき、彼女たちはメルシーと言ったか?」 私「言わなかった」 彼「そうだろ、俺たちは言わないのだ。それなのにおまえはいつでもメルシーと言う。これからは言うな。俺たちはあげて当然、もらって当然なんだから」
女性たちはときどき植物性の食物の採集に出かけるが、全員が行くわけではなく、体調のせいなどもあってキャンプに残っている女性もいます。採集から帰って来た人は、キャンプに残っていた女の人に採集物の一部を必ず分けている。網猟という集団猟をやるときにも、怪我をしているとか虫歯が痛くてたまらないとかで体む人もいるし、一緒にやっても自分の網に獲物がかからなかった人もいる。というより、当日自分の網に獲物がかかったという人の方が2・3人かせいぜい4人くらいです。網猟の獲物が数頭とれる、つまりこれで数日は肉が食えるとなると、「今日の網猟はおしまい」、ということでキャンプに帰ります。
キャンプに持ち帰った獲物は一か所にまとめて数人の男が解体します。そのとき実際に獲物をとった人はそこには加わらず、そっちに背中を向けて煙草を吸っていたりして、むしろ知らんぷりをしている。解体現場では大きな肉の塊に切って、いくつもの肉の山に分ける。その一山ずつを、それぞれの小屋の前で休んでいる女性に配る。最後のひと山はどうするのかな?と見ていると、「はい」と私にくれる。つまり、小屋の数だけ(それには私の小屋も含まれる)肉の山をつくって、どの小屋つまりどの家族にも分けられる。というわけで、肉も植物性の食べ物もいつもどの家族にも分けられる。料理には自分たちが搾ったヤシ油を使い、調味料は村人の畑から失敬してきたトウガラシと私があげた塩を用い、どの女性も同じように料理する。出来上がった料理をさっき話したようにお互いにみんなで分け合っている。つまり料理の材料も料理した食べ物自体も、二重に分かち合っているのです。
この「分かち合い」は、「交換」ではもちろんないし、「あげる・もらう」でもない。「あげる」というときには――「あげる」と言葉で言わなくても――、これは私のものであるという意味合いが含まれる、もらう方もあなたのものを私がもらうということを認めたうえで受け取ることを意味します。彼らはこうしたことを匂わせるような素振りもしないし、そんなふうに(つまりあげるというふうに)受け取られないように気を使っている。だから私はこれを「分かち合い」「シェアリング」と呼ぶことにしたのです。
さらにもう一つ、アカは物の数を数詞を使って数えない。彼らは農耕民の言葉を母語として話している。そして農耕民の言葉には数詞がちゃんとある。にもかかわらず、数を(数詞で)数えない。先ほど、獲物の肉を小屋の数だけの山に切り分けると言いました。でも、このキャンプには小屋がいくつあるか?と尋ねると、彼はキャンプを見まわして、「ミンギ」つまり「いっぱい」「たくさん」と言う。8とか10とか12くらいなんですが。彼らは、切り分けた肉の山とそれぞれの小屋とを、1対1対応で数えているのです。だから肉の山の数はいつも小屋の数と同じになり、不足したり余ったりすることはありません。また、トウガラシの実を10個地面に並べて、これを順に数えてと言っても、1から4か5までは数詞で数えるのだが、それ以上になると言葉を濁してしまう。つまり、彼らの生活のなかでは、数を数詞で数えるという必要がないのです。
アカは、村人との間での物のやりとりは、「分かち合い」というよりはむしろ「あげたり貰ったり」という感覚でやっている。だけど、それは「交換」ではない。彼らはイトゥリのムブティのように「物々交換」という形での物のやりとりをしない。お金も知らない。私がお金・紙幣を見せて、これは何だと訊くと、「何?その葉っぱみたいのは」、と言います。数を数えないのだから、交換しようと言われても、交換割合ということがわからないというか、そういうことに無関心です。もちろん、二つの肉の塊のどっちが大きいか、バナナの房のどっちが多いかはわかる。しかし、自分の肉塊と村人のバナナの房のどっちが大きいか小さいかはわからない、というより、比べようがない。
大きめの村だと、村の人のなかには、俺のバンベンガとか私のバンベンガという、パートナーのアカの男や女がいない人もいます。そういう人は、アカの村のキャンプにやって来て、バナナや塩やたばこなどを示して、「これと肉を交換(シャンジェー)する者はいないか」、と言うことがあります。そんな場合でも、「塩? 塩はタンノが持ってる(くれる)からいらない」、「煙草? それもタンノが持ってる(くれる)からいらない」、といったことになる。たぶん、そこに私がいない場合には、彼らはこうした村人の要望に応じるでしょう。だけど、自分の物と相手の物とを見比べて、どっちが多い・少ないとか言わない。だから損したとか得したということもない。ずるい村人とのやりとりを横で見ていると、なんとも歯がゆい気持ちになります。逆に、アカが村に肉などを持って行ってなにかと交換しようと言ったことは一度も見ませんでした。村に肉などを持って行くのは、パートナーの村人にあげるためです。
もちろん村の人はお金を使っているし、売買もしている。物々交換もする。でも、彼らは自分たちのアカとの間では、彼らもあげたり貰ったりでやっていて、アカとの間では物々交換という形をとらないし、アカとの間ではお金を使うことを意識して避けている。
つまり私が調査したアカは、自分たちどうしでは「分かち合い」という形で、そして村人との間では「あげたり・貰ったり」という形で物をやりとりはするけれど、「交換」という形でのやりとりはしなかった。「交換」ということがわかっていない。「物のやりとりは交換という形をとってやりましょう」というような人間関係そのものが、彼らにとっては無縁なようです。
では、交換なんていうことをしない人たちと、互いの物を交換する人たち、あるいは「物のやりとりは交換によるべし」という人たちとは、どこがどう違うのか? 単に数を数えられないからとか、そんな遅れた無知な人たちだから交換ということがわからない、というのではないのでは?と思ったわけです。
マルクスの「商品」論
87年の暮れに帰国した直後に急性肝炎になって大学病院に入院し、入院が長引いたのと、ムブティとアカの違いが気になっていたので、この際だからちょうど好いと思って、『資本論』を読みました。とくにその「第一章 商品」でマルクスが商品つまり交換する物・またはお金で売買する物をどんなふうに検討・考察しているか、興味をもったからです。主治医の佐々木先生は「そんな難しい本を読んでいると、病気がさらに悪くなるといけないから、やめなさい」と言っていました。佐々木先生は後日わかったのですが、山形県の同じ高校の先輩だったのです。ここでもよき先輩に恵まれました。
商品とはいかなるものかを検討する際には、その一方で商品ではない物、つまり交換という形をとらずにやりとりされる物と、比較しながら分析・考察しているはずです――それが直接には書かれていなくても――。そして、交換という形をとらずに互いの物をやりとりする人たちはどんな関係にあり、他方、交換という形で物のやりとりをする人たちはどんな関係にあるのか、も比較検討しているはずです。マルクスと同時代までの経済学者は(おそらくはその後の経済学者たちも)こういうことには無関心で、人間の歴史の大昔にはお金というものはなかったから、物を売り買いはしてなかったろうが、人間は大昔から交換――物々交換――をしていたと考えることに慣れきっている。しかし、さすがはマルクスおじさんで、彼はこうしたことをきちんと考えながら、商品論を展開しています。といっても、普通の読み方でこの第一章を読んだのでは、彼が何を言おうとしているのかわからない。マルクスは「第一章 商品」を独特の叙述方法を用いて書き進めている。このことに気がつくまでに数年かかりました。そして、「第一章」でのマルクスの一連の文章を、全部とおして自分の言葉と表現に言い換えてみるどうなるか、という作業を何回も繰り返して、彼の論理と叙述の脈略のすべてがわかったと言えるまでに、去年の夏までかかってしまいました。それが、一昨日に出版されたこの本――『『資本論』「第一章 商品」の解読』(弘前大学出版会)――です。
これから話すことを、ギューッと縮めてひと言で言うと、マルクスは19世紀半ばのヨーロッパに降り立ったピグミーであった、ということになります。
では、マルクスおじさんは「商品」とはどんなものだと論じているか。
「第一版序文」のなかで、彼は次のように言っています。「なにごとも初めが困難だということは、どの科学の場合にも言えることである。それゆえ、第一章、ことに商品の分析を含む節(この「節」を書き改めたのが、第二版での「第一章 商品」です)の理解は、最大の困難となるであろう。」また、「それゆえ、この価値形態に関する一節(同上)を別とすれば、本書を難解だと言って非難することはできないであろう。」とも言っています。
自分でその本を書いておきながら、<この本の最初の部分(「第一章 商品」)は、理解するのが本当に難しいですよ、最大の困難となるでしょうね>とか、<第一章は難しいけど、その部分を別とすれば、分厚いこの本の第二章以下は難しくはないですよ>、と最初に断り書きをしたのは、どうしてなのか?
その第一の理由は、この本は「経済学の本」ではなく、経済学つまり経済学者たちの考え方をこの第一章で微細に分析・検討して批判した、「経済学批判の本」だからです。だからマルクスはこれを書きあげたときに、<この本の最初の部分は、読者には本当に難しいだろうなー>と思ったのです。そして、実際に彼の予想どおり、本当にそうなってしまった。初版が1867年、第二版が出たのは1873年、その10年後に彼は亡くなった。それから約140年間、この「第一章 商品」については、経済学者やいろんなマルクス研究者の間で大論争が続いて今に至っています。
私たちが本を読むときの普通の読み方で読むと、難しいだけでなく、マルクスの叙述のあちこちに前後で矛盾している箇所やら、腑に落ちない箇所がポコポコ出てくる。第一章が難しい第二の理由は、「商品とはいかなるものであるか」について、経済学者たちとくにスミスやリカードを念頭において、彼らと対話を交わしながら叙述を展開していき、そのなかで経済学の考え方・商品の捉え方を徹底的に批判しながら、「違うんだよ、じつはこういうことなんだよ」、と反論し、自分自身の分析と考察を述べる、その繰り返しという方法をとったからなのです。
では、どうしてそんな方法をとったのか? 当たり前のことなんですが、マルクスが初めて商品を分析したわけではない。彼以前に何人もの経済学者たちが商品とはいかなるものかを分析し考察していました。そして、彼らは「商品は使用価値である(それぞれにいろいろな有用物である)とともに、交換価値でもある(他の商品と取り換えることができるという値打ちを有する)」と言っていた。だからマルクスは、最初に経済学者のこの見解をとりあげて、彼らと対話を始めるのです。
そして彼は、「使用価値は、富の社会的形態がどんな物であるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっている――交換価値の。」と反論します。
つまりこういうことです。いつの時代のどの社会でも――交換なんていうことをしない社会でも、交換し商品とする社会でも――もろもろの使用価値(有用物)は社会の富の現実の姿だ。だけど、商品交換社会では、それら使用価値(有用物)が交換価値なるものの担い手になっている。つまり、この社会ではもろもろの使用価値が交換価値というものを担わされている。では、そんなものを担わせたのは誰か。自分たちの生産物を交換し商品にしているこの社会の人たちだ。それなのに、あなた方経済学者まで、有用物そのものが交換価値でもある、有用な品物はそれ自体が別の品物と交換することができるという値打ちをもっていると勘違いしている。互いの物を交換するからこそ、物は交換価値または価値をもつなどということになるのであって、交換なんていうことをしなければ、物が交換価値・価値をもつはずがないでしょうが、とマルクスは言うのです。
そうやって対話を重ねながら、あなた方経済学者はこれこれのことには無頓着で、そのことに気がつかないままに論じている、だけど、じつはこういうことなのですよ。だから、あなた方が言っていることの背後には、じつはこんなことが隠れひそんでいるのですよ。あなた方経済学者もその一員である商品交換社会の人たちは、こんな奇妙な人間関係を、これこそが本来の人間関係のあり方なのだとすっかり錯覚しているんですよ、とマルクスは言っているのです。
だから、マルクスのこうした叙述の方法(この方法を彼は「ディアレクティーク」と言う)を、私は<暗黙の対話法>と呼ぶことにしたのです。「ディアレクティーク」は、専門用語としては「弁証法」と訳されますが、哲学辞典で「弁証法」の長い長い解説文を読んでも、怪しげな説明でわからない。それを書いた人以外には理解できないはずです。「第一章 商品」は<経済学者との対話篇>なのです。といっても、実際には、対話篇のようには書かれていない。だから、普通の読み方で読み進むと、「マルクスの言っていることはわけがわからん」となるのです。その詳細を話しだすと長くなるので省きます。
ただ、1例だけあげると、最初にマルクスは、二人の人が20エレのリンネルと1着の上着を交換する――20エレのリンネル=1着の上着――場面をとりあげて、経済学者と対話します。 マルクス「彼らはこの割合でならどちらも同じで等しい、と言って交換する。でも、リンネルと上着は明らかに違う物ですよね。互いに違う物なのにじつは同じものだと言うのは、何が同じなのか? 違う物がじつは同じだということは、双方の違いを無視し捨象しているわけだ。そして双方の物のなかに潜んでいると言うあるものを指して、あなた方はそれを交換価値と呼んでいる。でも、一方がリンネルで他方は上着であることを捨象しちゃっているのだから、そのうえでの双方の交換価値なるものは、姿かたちのない透明物体、幻のようなものに変身していますよね。では、商品の交換価値――マルクスはこれをあらためて「商品の価値」つまり「価値としての商品」と呼ぶことにした――の実体は何だと言うのですか?」 経済学者「それは労働だ。」 M「ではその(価値の)大きさはどうやって計るのですか?」 K「それを生産するのに要した労働の量・労働時間で計られる。」 M「あなた方は商品に表わされる労働の二重性にまったく気がつかずに、その双方をごちゃ混ぜにして論じていますね。労働はそれぞれに違う有用労働だからこそ、その産物は一方はリンネルという姿になって現われ、他方は上着という姿をとる。だけどあなた方は双方の違いを捨象してしまっているのだから、その違いとなって表わされるそれぞれの有用労働の違いをも無視した、抽象化した同じ人間労働が「価値としての双方の商品」を形成したのだとあなた方は言っているわけだ。だから「商品の価値」または「価値としての商品」は姿かたちのない労働のある量が凝固した物だということになり、あなたたち自身がそれらを透明物体に変えてしまっておきながら、そのことにまったく気がついていないんですよ。」 長くなるのでこの続きはやめます。ちょっとだけ宣伝ですが、この本を読んでいただければ、「そういうことなのかー」とわかります。
商品交換社会と比較するために、マルクスは「共同体」または「自然発生的共同体」を例に出します。共同体の人々は、日々の暮らしそのものを共にしている。だから、共同体内の人たちも手分け(分業)して労働するが、各自の労働は自分のための「私的な労働」として行なうのではなく、共に生きるための「直接に社会的な労働」つまり自分たちみんなのための労働として行なって、それぞれに種々の有用物を生産し、それらを共に利用するのだから、彼らは交換をしない。「交換が始まるとしたら、それは共同体と共同体の接点でのことだ、それは互いに他人という関係にあるからだ」と彼は言う。 ただし、逆に、共同体と共同体の接点では必ず交換が行われるとは限らない。どの共同体どうしも互いに他人だとは限らないからです。では、そうした共同体の間では、物のやりとりはどういう形をとってなされるか? それを検討したのがモースの『贈与論』です。
他方、商品交換社会の人々は、互いに自立・独立した自由で平等な人間で、自らの自由意志と私的所有権を有する、法学で言う「人格」だということになっている。だから、自分の仕事も他人に指図されずに自分で選んで働く。つまり彼らの労働は自分のための私的な労働として行なわれる。その結果を全体として見れば、分業が行なわれている。そして各自の生産物は各自の私的所有物である。だから、他人の物が欲しければ自分もそれに見合うだけの相手の欲しがる物を譲渡する、つまり物のやりとりは交換による、ということになる。交換することでそれらの物は商品となり、それが高じていったその先に、「私自身では何も商品を生産することができない。私が商品として売ることができるのは自分の労働力のほかに何もない」という人間が大多数を占める社会が生じてしまった。
そして、経済学は交換・売買を大前提としていて、交換のない社会には思い至らない。今日の経済学という学問は、近代市民社会とその後の現代資本主義社会の人間関係のあり方を、鏡のように映し出している。だからマルクスは、その経済学を反面教師として研究し、その批判をとおして、社会全体を交換のない大きな共同体に変革するためにはどうしたらよいのかを、考え続けたのです。彼は、マルクス主義経済学という新たな経済学を構築しようとしたのでは決してありません。『資本論』は「経済学」の本ではなく、そのサブタイトルのとおり「経済学批判」の本なのです。私から見れば、これは「人類学」の本なのです。
先ほど私は、マルクスは19世紀半ばのヨーロッパに降り立ったピグミーであった、と言いました。ただし、マルクスおじさんは、われわれはアカ・ピグミーのような暮らしに戻るべきだと言うのでは決してありません。ルソーのように皮肉交じりに「高貴なる野蛮人」に戻ろうと言うのではない。長い歴史を経てここまで発展してきた現代社会の、高い科学技術と生産力とによる大量生産方式を基盤にして、生産物を商品にしている社会を変革して、ましてや人間の労働力までも商品にしてしまって売買するような商品社会を変革して、この社会の「私的に営まれる労働」を「直接に社会的な労働」に転換しよう、と言っているのです。
これで最後の通過儀礼をくぐり抜けたことにしていただいて、終わります。ありがとうございました。
PDFファイルは丹野先生からご提供頂いたものそのままです。弘大を退職された際にファイルを整理され、ぜーんぶ削除してしまったとか。かろうじて紙で残っていたものをPDF化して下さいました。