にんげんこうどうのわ!

『人間行動の思い出』 1期生 M先輩   

1期生の大先輩 Mさんより当時の思い出話をお寄せ頂きました

 アップルランドでの同窓会でお会いしたときは、学生時代のアクの強さはすっかりなくなり、温厚な笑顔がとても印象に残りました。 ときどき重好先生と夜の会合(飲み会)をされているとか。1期生にMさんは複数おられますが、読んでいただければわかる人にはすぐわかると思いますよ(笑)

※卒業生(ご本人ならびに文中に登場される方)のお名前の表記方法については、ご本人に確認の上決めております。

『人間行動の思い出』

その1

 実は私は弘前大学の人文学部に「人間行動コース」が新設されるなんてことは全く知らないで入学してました。 大学志望動機は、「とにかく遠くの大学に行きたい」の一点だったので(私、岐阜県出身です)、コース選択の時には「へーっ、面白いコースがあるんだ、だれが選ぶんだろう」って思ってました。

 大学選択もそんなモラトリアムないい加減なものだったので、当然ながら教養部から専門課程に移る時も、 これまたコース選択の締め切りの日まで、ぐずぐずと決定を先延ばしして、選択希望用紙に何も書かないままで、人文学部の校舎の中をうろうろしていたわけですよ。 でもまあ内心は、日本文化コースに行って、好きな作家の作品をおなかいっぱい読んでいようかなと半ばは心に決めてうろうろしていたわけです。

 そんなことよりも当時は学生寮の自治会役員として、 寮生大会の決議文を起草したり評議員や学寮委員の先生方をオルグしたり、 そっちの活動で頭がいっぱいだったような気がします。その頃同期の三浦さんが「1960年には60年安保があったでしょ、 1970年には70年安保はあったじゃない、だから、1980年には80年安保闘争が起きるんじゃないの」って、 なんだかノストラダムスの大予言みたいなことを言っていたのを覚えているんだけど、その頃、1980年当時って言うのは、 まだ何となく70年安保闘争の残り香みたいなのがあって、学内にもセクトの立て看がいっぱいあって、昼休みにはマイク使ってアジ演説やってるセクトもいて、「世のため人のために何かをすることにこそ生きる価値があるんだ。自分の学業成績なんかを気にする奴は資本家の手先だ」とまでは言わないけれど、お勉強に対するモチベーションが上がりにくい状況に私は落ち込んでいたわけです。

 で、コース決定の最終日、確か土曜日だったと思うんだけど、日本文化コースの先生の研究室目指して重い足取りで進んでいったのですが、 日本文化コースのお部屋には、なんと鍵がかけられていて申し込みができなかったわけです。その隣の部屋を見ると、二郎先生たちが弘前に来る前だからだれか代理の先生だと思うんだけど、ドアのところに袋が張り付けてあって、「人間行動コース希望の学生はこの袋の中に希望用紙を入れておくこと」なんて書いてあるのを見て、私は運命的に人間行動コースの一員になってしまったのです。

 このことをコースの初日に正直に話した時の、二郎先生たちの冷たい視線を私は未だに忘れることができません。 というか、驚いたことに、人間行動コースを選択した一期生11人のほとんどが、私に負けず劣らず、いい加減な志望動機できていることがその時分かりました。例外は大阪の民族学博物館にいる南真木人くんで、彼だけは「雪山のテントの中で読んできたのが田中二郎先生の「砂漠の狩人」でした。あこがれの先生に接することができて感激です」と私たちには思いもよらないような発言で度肝を抜かれました。

その2

 人間行動に入ったのはいいけど、いったい自分は何を勉強するんだろう、とモラトリアム人間の私は考えたわけです。寮自治会の活動も、先輩たちがちょっとやりすぎて、めちゃくちゃな状態になっていたので、「一抜けた」みたいな感じでお休みをいただいてぽっかりと空白状態が訪れていました。

 行ってみると、二郎先生、丹野先生、池上先生、お三人とも授業は抜群に面白かったです。

 特に池上先生はもうこれは授業名人としか言いようがない方で、授業に酔いしれて聴き惚れていました。宗教学が御専門だということなのですが、人が生きている時間が機械的に、安定的に、無色で流れているのではなくて流れが滞ったり、時として輝きを見せたり、うねったり、翻ったりしていることがひしひしと伝わってきました。「ヴァン・ジェネップ/ファン・ヘネップ」の通過儀礼について勉強してから一期生11人の間で「コミュニタス」という言葉が大流行して、大みそかの夜にKくんの提案で「コミュニタスコンパ」をやろうというんで大いに盛り上がったことを覚えています。また、入門期の私たちに、橋渡しとなる書籍を紹介して下さるのですが、高校生の時に読んで感激した和辻哲郎の「風土」を「ヨーロッパ偏重、西洋コンプレックスの産物」と批判されたことが、今となればごく常識的なご指摘なのですが、ものすごく新鮮で、学習私欲をかきたてられたことを覚えています。

 丹野先生はルックスが個性的で、うちの嫁(西洋史にいました)は「東京凡太みたいで好きだった」と言っています。「東京凡太」でイメージわく人は相当古い年代の人ですね。ピグミーとの交流を、独特の間合いで語られるのですが、「ぼくの前に行ってた原子というのがどんくさいやつで、ピグミーちゃんも日本人はどんくさいと思いこんでて、ジャングル歩くたびに、「根っこ」「えだ」っていちいち指さして教えるんだよ」って語られる時の生き生きとした表情が印象的でした。ラドクリフ・ブラウンの「アンダマン・アイランダーズ」を原書講読したのですが、僕たちのあまりの出来の悪さに、翌年から原書を使った授業はなくなってしまいました。

 二郎先生は弘前大学で初めてジーパンで授業を行った先生ということになってるのではないでしょうか。いろいろやかましい人たちも、二郎先生には何にも言えなかったみたいで、いやー、かっこよかったです。お昼時になると人間行動の先生方はみんな一斉に学食で食事をされるのですが、口の悪いやつは「大名行列」なんて言って皮肉っていましたが、これは野外調査の時の情報交換手段を日常の中でも実践されていたのだと思います。「ぼくは一番いやなことが授業をすることなんだよ」って言ってみえましたが、いえいえ授業も大変興味深かったです。それと、人脈の広さから集中講義などにいろんな先生を呼んで下さり、川喜田二郎先生はじめ、弘前では出会えるはずのない人がやってきました。

 川喜田二郎先生に「朝日ジャーナルで日本は世界最大の氏族国家であるって書かれていましたけど、あれはどういう意味なんですか」って、怖いもの知らずで質問したら、「日本の国立大学では日本国籍がないと教員にもなれないんだよ、氏族国家以外ではあり得ないことだろう」って、怒っておいででした。

 南くんが二郎先生のおともで朝日新聞のホンダさんって人とスキーに行き、そのホンダさんと温泉に入ってて「どんな記事を書いてるんですか」って聞いたら、相手が、不思議そうな顔をして「新聞にはあまり書いてないけどジャーナルにはいつも書いてる」っていうから、確かめてみたらなんと本多勝一だった。なんてこともありました。「あんなたれ目のおっさんが本多勝一だなんて思わなかった」と、南くんは語っていました。

その3

 僕らが3年生になった時、初めての後輩たちがやってきた。2期生たちは全体的に真面目で地味な印象だった。彼らとは一緒にねぶた祭りの研究をすることになるのだが、僕らが卒業間近の大切な時に学祭で「阿弗利加屋」なんてけったいな店を開いて、遊び呆けている時の写真を見ても一緒に写っているのは3期生で2期生はいない。あの時彼らはどこに行ってしまったのだろう。

 田中重好先生がいらっしゃったのもこの時だ。慶応大学出身の先生は、僕らがジャージ姿でどこでもうろうろするのを見て、ずいぶん驚いていらした。僕らだって、先生が奥さんと小指と小指を絡めて駅前のイトーヨーカ堂をうろうろされるのを見て本当に驚いた。

 さて、先ほども出てきた「ねぷた祭りの研究」である。京都大学の学生さんたちが行った「祇園祭の研究」が先行研究としてあって、ねぷた祭りでも同じようにやってみよう、ということであったが、先生方にすれば、前年のラドクリフ・ブラウンの英文講読に懲りて、「こいつらには体を使わせるしかない」と思われたのではないかと推察する。

 この研究、今から思えば、滅茶苦茶に面白く、意義深い研究であったのだが、その当時の僕たちにはそんなことちっとも理解できなかった。本当にもったいないと思うのだが、いまさら悔やんでも仕方ない。祭りに熱狂する市民なんてのは封建遺制の典型で、啓蒙すべき対象であり、学ぶことなどないというのが、当時の僕たちに感覚だったように思う。それがものすごい思いあがりで、大いなる勘違いであることは、ある日突然目が覚めるように気付くのであるが、当時は全くわからなかった。

 極端な例えになって申し訳ないが、オウム真理教に巻き込まれた信者たちはみな僕たちの同世代だった。子どものころから信じていた人類の科学の進歩が怪しくなり、革命を目指す思想は内向きの暴力にそのエネルギーを奪われ、思春期に流行したフランス人の預言が妙にリアリティーを持って感じられたあの時代を生きた信者たちを少しの共感を持って理解できるのは、僕たちの世代だけだと思う。どんな手段を用いても、愚民たちを啓蒙するのだという、みょうちくりんな使命感はねぶた祭りに熱狂する市民たちを冷ややかに見ていた自分たちの感覚に共通する。

 駅前班、松原班、小栗山班、茂森町班に分かれて参与観察の手法で行った研究は、最初の「こんなの研究って言えるのかいな」という感覚から、祭りに巻き込まれて、一緒になって熱狂する感覚へと変化していった。驚いたことに、祭りにかかわる俗物たちは、全くわがまま勝手に自分の思いを持ちその実現のために祭りを利用していた。

 駅前は商店街のライバルである鍛冶町商店街への対抗意識を原動力にして、松原は新興住宅地の「松原地区民」としての住民意識形成の手段として、小栗山はいつも自分たちを馬鹿にする弘前市中心地域への対抗意識の表れとして、重森町はドーナツ化で去って行った旧住民の再結集の場として伝統の尊重など実は口先だけで、現実的な利害を原動力にして祭りは動かされていた。

 しかし、驚くべきことに、そんな俗物たちの、わがまま勝手な思惑をもエネルギーとしてねぷた祭りの「伝統」はますます強固なものになっていった。大正時代には、剣術道場同士の対抗意識から、ねぷたを石で破壊し合うのがエスカレートし、多数の死者まで出たというこの祭りはそうした死者たちの伝説まで、おどろおどろしい祭りの味付けにしていたが、あの祭りの数日間だけは、弘前藩から続く時代の延長として時間が流れていた。

 茂森町の祭り実行委員長のじいさんは、新潟の三条で修業した鍛冶屋であったが、祭りになると「血がじゃわめく」のだと言っていた。俗世間は祭りを利用して現実的な利益を得るし、祭りの方でも俗世間のエネルギーを利用して自分の生命を永らえさせる。人間って本当に愚かでかわいいものだなあと、あの研究を振り返ると思えてくる。

 僕たち1期生が卒業論文のテーマを決めるとき、ねぶた祭りをテーマにするものが一人もいなかったことを先生方はずいぶん期待外れに感じられたことと思う。生真面目な池上先生は「僕たちの指導が足りなかったのかなあ」と呟いておいでだったが、そんなことは全くない。僕たちが全く愚かで、目覚めるのにもう少し時間と経験が必要だっただけなのだ。

 南真木人君がこの年の秋、弘前大学山岳部の一員としてヒマラヤに遠征し、ちょうど学祭のころにヒマラヤの未登峰への登頂に成功した。もしも南君が残っていたら、僕たちの愚かさもそう少しは、改善されていたかもしれない。